江戸しぐさは、記録が一切 残されていないからイキですね!
「文字にすると俗化するから書いてはならぬ!」と言われていたからでしょう。
でも、そのために多くの江戸しぐさが消えてしまったことは残念ですね。
江戸が、ずーっと続いているうちは、親から子に、子から孫へと、口伝え、目伝えに受け継がれていったでしょうが、江戸が消滅してからは、当然のことながら、江戸しぐさもまた、江戸と運命をともにしてしまいました。
これが、口惜しい。勿体ない。残念無念と私は思っているのです。
それで、20年ほど前に江戸しぐさの良さを見なおす会、略して「江戸の良さを見なおす会」という会を作りました。
「見直す」の直すを、漢字にしなかったことについて、N女子大のI先生が、「ちょっと意味ありげですね」と、おっしゃられましたが、さすが大学の先生(教授)だと感心すると同時に嬉しくなりました。実は、当時どうしようかと、一か月も迷った挙句の果てに「かな」に決めたからです。(詳しくは、お講席で)
ついでにもう一つ。“うらら”のエドFAXについてです。
ご存知のとおり、江戸言葉では、相手を尊敬して物(ことば)を誓う時には、自分のほうをへいくだらせて複数形にしましたね。例えば、「てまえども」「私ども」「こちとらら」など。
それで、浦島等(うらしまら)略して「浦等」です。とこらが、いまの世の方々は、これをウラトウとかホトウとおっしゃいます。
これでは、それこそ手前どもの敬意が伝わりません。そこで「うらら」とひらがなにしてみました。このウララは、私個人ではなく、江戸しぐさを伝え残そうとする人間のカタマリという気持ちもあります。そのように受け取ってくだされば、うれしいことです。(春のウララのスミダ川[花]の歌を聞かれたら“うらら”を思い出してくださいな)
それから「エドFAX.」のファックスは、当世はやりの情報機械のことではありません。これもご存じのとおり「江戸と似たもの」という意味で付けました。
当然のことながら、当世は江戸ではないし、私も江戸(時代)生まれではありません。
江戸が消滅して4代も後から生まれた人間です。こんな青二才が、本物の江戸しぐさをどうのこうの言う資格などはありません。
私にできることは、本物の江戸しぐさに似たものをお目にかけることです。そこで、ファクシミリ、略してFAX.としたわけです。
ご存知のように、facはラテン語で、作るとか再現するという意味があるようですね。また、simileは、似たものという意味のようですね。
つまり、本物の江戸しぐさと似たようなもの、言うなればコピーです。悪く言えば、本物の江戸しぐさのイミテーションです。くどいようですが、イミテーションもラテン語のimitatioem(お手本)からきているようですね。
本物をお手本にしたコピーです。それでも、「ないよりはまし」というのが、私の言い分です。
語源が共通と言われる言葉に、シミュレーターというのがありますね。
自動車・飛行機・スペースシャトルなどに乗る人たちの訓練をする装置ですね。
私の主宰する会も「江戸しぐさnシミュレーターになれればいい」と考えたわけです。
絵の勉強をされた方ならシミリタニズムという言葉を使われるでしょう。時と場所の違う現象を一つの画面に現す技法のようですね。
私の会も、過去の江戸しぐさを、現在に再現しようという考え方なのです。
江戸しぐさに限らず、物事は、繰り返し繰り返し練習していないと、すぐに忘れてしまうものですね。音楽の記号にsim.というのがありますね。このシーミレも、似る、繰り返すという意味のようですね。カラオケで一般化しましたが。
江戸しぐさも、毎日・毎日繰り返してやってなければ忘れてしまいます。私自身も、もうずいぶん忘れてしまいました。そこで、音楽ではありませんが、心の譜面にsim.
という記号を付けて、自分のイマシメにしている次第です。
会員の方から、「江戸もとうとうファックスになったのか?」というお手紙を頂きましたが、私どものエド・ファックスは、当世ブームの電化機械に似せ付けたものではありません。
以上、申しあげましたように、本物の江戸しぐさの良さを見なおしたいと、昔の本物を手本にして、本物に限りなく近いイミテーションをパフォーマンスしようというわけです。
ついでに申し上げておきますと、昔は江戸をYedoという感じに発音していましたので、海外向けのリポートにはYEDO-FAX.としています。また、最近は、留学生の皆さんにもニュースを差し上げていますので、江戸を「エド」と読みやすくしたわけです。
もちろん、はやりのファックス機械も使っています。念のため。
では、ごめんください。