恥じるから人間は成長する。
世の中に生を受け、最初は何も知らない。知らないから教わる。人に教わることは当たり前なのに、いつの頃からか教わること、知らない事が恥ずかしいと思うようになる。
人の生活はそれぞれ違う。得意の分野も違う。だから、覚えなかった、知ろうとしなかった。それで、いいのではないか。必要になれば覚えればいいのではないだろうか。知識ばかりあり、使いこなせないのは、宝の持ち腐れではないか。その知識をどのように生かすかが、人には求められている。
江戸しぐさでは、知識を身に付け、生かすことで人の役に立つことを教えています。そのことにより、行動、考え方が自然とできるように癖になっていきます。
何ごとも遅いという事はありません。
その人にとって、そのことが出来る時期とチャンスが今来たという事だと思います。
多いに恥じて自分を大きく育ててください。
集中することで、人の人生は変わります。何をするかです。挑戦したのであればあきらめない事です。必ず道は開けてきます。
恥ずかしいと考えずに、前向きにとらえ、ありとあらゆる知恵をしぼり、一歩一歩歩くのです。道草しても歩くのです。歩けばいつか目的に達するでしょう。止まれば終わってしまいます。
人生はチャレンジです。人生の完成はありません。出来ないことは後進に委ねましょう。
おもき心
「おもいやり・もてなし・きくばり」が出来るようになれば一人前だ。そうなるために毎日努力をしている。すべては出来ないけれど、少しずつ近づく事は出来るでしょう。そのような努力が人間を大きくしてくれると思います。おもき心は、人に言われてするものではなく、自分の心でするものである。
この「三つの心」の中で、「お」が付いて使われている言葉があります。「もてなし」です。
「もてなし」「おもてなし」この言葉は、違いがあってはいけないと、私は思います。
「もてなし」とは、「心を持って成し遂げる」(持て成し)
「おもてなし」とは、「もてなし」の丁寧語です。そうであればもう少し謙虚であってもいいのではないでしょうか。やたらとお店の公告に、何々の「おもてなし」という表現を見たり耳にしたりします。「おもてなし」の言葉を、人に押し付けています。間違ってはいないでしょうか。もてなしとは「心」でするもので、された人は、数日たち、たとえば、旅の宿での一つ一つの事を思いだし「すばらしいもてなしをうけたな」と、有り難く思う気持ちで、宿の心に対して「お」の付く表現だと思います。「すばらしいおもてなしをうけたな」ではないのでしょうか。
もてなしをする側と受ける側での言葉の使い方ではないかと思います。
する側が、「今日もすばらしいおもてなしをしましょう」と言っているのに違和感を覚えませんか。
心というものは、表現するものではなく、のちのち感じとるものではないでしょうか。
外国の方が尊敬する日本人の心は、謙虚さだと思います。
老入り(おいいり)
老入りということは、隠居して若い人を育て引き立てる役目の事をいいました。
隠居後、年長者ならではの見識を期待されました。人生五十年の時代、四十歳をすぎると、そろそろ世代交代の準備に入るのが江戸の習わしでした。
周りを笑わせるユーモア精神を持ち、若い人を引き立てる事が、老入り後のつとめでした。
隠居後は我が家、あるいは地域の相談役に徹しました。周りの者も、そうした価値を認め、尊敬の念で接しました。
理事長 芥川友慈