はじめに
「地震・雷・火事・親父」と言えば、「恐ろしいもの」の代表ですね。しかし現代に生きる我々は、それらを本当に恐れていますか?
「恐ろしい」には、
1.危険を感じて、不安である。こわい。
2.程度がはなはだしい。
①驚くほどすぐれている。はかりしれない。
②驚きあきれるほどである。ひどい。
という意味があります。今日私達が同じ言葉を口にする際、1.もしくは 2.②の意味を連想します。しかし本来は、 2.①の意味での「恐いもの」の代表であったと考えます。「畏敬の念」の対象としてのベスト 4と言う訳です。そして現代でもそう感じられるようになって欲しいと願うのです。
順番も的確だとおもいませんか?予測は有る程度出来る様になったとは言え、地震は現代科学をもってしても避けられるものではありません。雷は、ある程度の精度の予報で被害を最小限にすることは出来ますが、落雷を止めることは出来なません。火事は予防が可能ですが、自然発火等、まだまだすべてをコントロールすることは出来ません。
では、最後の親父はどうでしょうか?ご一緒に考えてみたいと思います。
地震は恐ろしい?
江戸時代には、ナマズを題材とした鯰絵という名の錦絵が多く描かれました。確認されているだけで250点以上、実際にはそれを大きく上回る点数が発行されており、現在も筑波大学付属図書館や東京大学付属図書館等に所蔵されています。
鯰絵による物語には様々な種類があります。幕府に見立てた大ナマズを退治する風刺風のものもありますが、神様がナマズを閉じ込めて地震を防いだり、地震を起こしてしまったナマズが謝ってみたり、はたまた地震の復興景気の恩恵を受けた者がナマズに感謝したりと、地震絡みものもが多くみられます。
ここでのナマズに共通するものは、「人が太刀打ち出来ないもの」や「善きにしろ悪しきにしろ人の力を超えたもの」という点でしょうか。単純ですが純粋な「畏敬の念」を素直に感じることが出来ます。
また、大川(現在の隅田川)や神田川でマナズを飼って、江戸の町衆らが地震の予知のようなことをしていたらしいというお話を NHKの番組で見たことがあります。さしずめ鯰講といったところでしょうか。江戸っ子のことですから、密かにカケの対象にしたかもしれません。
鯰絵は、何が原因かは分からないけれど、止めることの出来ない危険な地震への警鐘と、日頃からの備えの必要性を万民に知らしめる重要な役目も持っていたようです。ただ単に怖がらせるのではなく、江戸時代、江戸っ子の遊び心が多くの鯰絵を生み出したのでしょう。
余談ですが、水戸光圀も要石(鹿島神宮)について記述しています。鯰があばれないように石を積んで、地震が起きないように祈ったという逸話もあるようですが、実はこの鯰は龍では?とも言われたようです。地と天の違いはありますが、両者共、長くてニョロリとしています。江戸時代の人達がなぜ地震の元をそういったものに例えたのか、是非調べてみたいと思います。皆さんはご存知でしょうか?
雷は恐ろしい
「ゆうだちやさっと吹き来る・・・ピカピカ、おおこわ雷さんはこわけれど・・・」という江戸小唄もございますように、ただ恐れるだけでなくこのように自然現象に対する親しみや、恐れを利用する強(したた)かさを含んだ唄も残されています。
江戸の町衆は、例え悪いことであっても、すべてをありのままに受け入れ、またそれを楽しむことの出来る才能を持っていたのでしょう。
因に、雷はその恐ろしさが強い者への憧れに転じ、英雄や力強さのシンボルでもありました。金太郎は雷を父に持ち、担ぐまさかりこそ、イナズマの象徴であるという節もあるようです。
火事は恐ろしい
江戸火消しの地震番も、町衆を中心に講を組んでいたようです。いざというときのバケツ(桶)リレー・角々の天水槽・隣の家の取り壊しは、版画などでもよく見かける風景ですね。
突然ですがお宅では消火器は備えていますか?家庭では大きな消火器は手間取るばかりで余り効率が良くないようです。ちなみに、芝講師は防災関連の会社のコンサルタントをなさっていたことがありました。そのようなことから消防に対する知識は豊富で、実演してくださった際のホースを持つしぐさには、凄みすら覚えました。
ところで、近年は町内の消防団に入る人が少なくなったとよく耳にします。相互扶助の精神が理解できない若者が多くなった。これは困ったものだと嘆いても、みんなでなんとかしよう・・と実際に集まる有志は少なくなる一方です。
些細なことでも事件にまきこまれないとは限りませんし、天災が起こってから出来ることは少ないでしょう。常に「もしもの備え」が重要です。下の事柄は、芝講師が実行なさっていたことばかりです。なお、沢山持ち出せば良いとは限らないようです。
1 下着などを新調するとき、名前を書いておく。それを身に付けているとなんの誰べいであるか? (自らを告知できる)
2 ひとりにひとつ安全帽(ヘルメット)安全靴を持とう。玄関に備えておく。
3 お水をいれた容器を備えておこう。大きいボトル2~3本。少々の火災でも断水でもこれですぐ対応することができる。
4 非常持ち出し袋の中を時々チェクしよう。軍手・手ぬぐい・タオル・帽子・靴下・薬・食品少々・お水(ペットボトル)・プラスチックのコップ・ラジオ・涸形燃料・アルミ皿・端布・スプーン・箸等
今月は防災の月でもあります。より便利で効果的なものがあれば、それに直して実践してみませんか。ご一緒に現代に直して考えてみましょう。
災害時に何よりも重要なのが、家族がどこでどう落ち合うかということです。通信機器は一切使えないという前提で、待ち合わせの場所を確認しておきましょう。その際、通常の町並みが一瞬にして変わってしまうことも想定し、候補を二つ三つは挙げておきたいものです。
場所ではない共通認識、例えば「自宅のある地区で、現在一番多く収容出来る避難所」等、状況の変化への対応が必要です。みなさん何か良いアイディアがございましたらお話ください。
江戸の良さを見なおす会では、「人の為・社会の為に、自分が無理をせずに何が出来るか」を、これからも問題提起していこうと考えております。実際に今問題になっていることが身近
にございますか?
親父は恐ろしい?
子供を叱る役割を母親が担うのは、今では割と普通なことのようです。母親の教育方針に父親が口を挟もうものなら、ちょっとした騒動になりかねない …。この状況は、良い結果を生んでいますでしょうか?
少し語弊があるかもしれませんので付け足します。これは母親が女性だからダメというのではありません。親父役が女性であっても問題はないのです。ただ、母親役とセットであることが重要だと申しているのです。厳しく躾ける役と、あるがままを受け入れ、包み込む役。需要なのはバランスですね。もっと言ってしまえば、親父役と母親役を一人がこなせることだってあると思います。保護者の威厳と包容力を子供に感じさせてあげてください。
家族の在り方が多様化している今日では、芝講師が理想としていた「江戸時代の様に両親が揃い、父親が子育ての主導を握る理想の家庭」を基準としてお話するのはかなり難しいことと思われます。とは言え、お箸の持ち方が美しいと褒めた際に「ありがとうございます。父(父親役)が躾に厳しかったもので」と、さらりと答える若者が増える未来を望んでしまうのは、やはり私が古い人間だからなのでしょうか、それとも先を行き過ぎているのでしょうか。
「我々はより広い世界の中の一員であるという」考えを強要された明治から徐々に、日本に定着していった「グローバリズム」は、家族という単位の需要性を端に追いやってしまいました。
今一度、個人ではなく「家族の幸せ」を最小単位と考えられる世の中を目指してみたいと思いませんか?それこそがグローバリズムの理想像であり、そうなってから「地球は一つの家族」と誇らしげに言ってみたいものです。現代に足りないのは、カミナリ親父なのかも…
和城流:ジシン・カミナリ・カジ・オヤジ
現代では、「自身(自信)・神なり・家事・親似」は、我々が蔑(ないがし)ろにしてきてしまったものの代表であると私は考えております。
-自身(自信)-
子供も親も、家族を顧みないで自分中心となってしまい、それは一見自分自身を大切にしているようですが、いま一つ自分に自信が持てない要因の一部となっています。家族と支え合っているという安心感は、個人の自信と深く繋がっているのではないでしょうか。
-神なり-
ここで言う「神」は、特定の宗教や信仰ではありません。言うなれば、自然を含めた「人がコントロール出来ないものすべて」のことです。「自然保護」という言葉がすっかり定着していますが、上の立ち場から「守る」というのではなく、「侵さない」という気持ちが必要な気がします。
-家事-
毎日の生活に必要な細々したことを、きちんとこなすことが大切です。便利さや合理性が、無駄としてしまうものの中にも、人間形勢に必要な部分があり、家族と協調する非常に良い訓練となるのです。家事は母親がやるものという考えをやめ、一人一人が出来る範囲で自分の世話をする。出来ない人の分は手伝う。家族でこれが出来ずに、社会で出来る筈はありません。
-親似-
育ててくれた両親に似ていたい(容姿ではありません)。心からそう思える人がどんどん増えていって欲しいと願います。愛し、敬えばこそ思えることですから。
最後に…
ここまで書いて、芝講師は日々の生活における一つ一つの小さなことから、このような大きな理想を伝えようとしていたのだなと、ようやくこの齢になって理解出来たような気がしております。
師匠と弟子。これもまた「親父と子供の関係」と言えますでしょうか。
代表 和城伊勢